ユウの余裕しゃくしゃく?

アスペ持ちアラサーの日々を書き留めるチラシの裏。

11th March

どーも、きのう「ジェノベーゼソースのクリームチーズディップ」問題で悩んでたにもかかわらず、今日は他の人が作ったディップを見て「まんべんなく混ざってる」の基準は違うんだな…と、色々揺らいでるユウですヽ(・w・)ノ
今日は「あの日」から5年。
当時、大学卒業を控えて、部屋を引き払う準備をしてた。
引っ越しの荷物を作ってて、「これがいつまで続くのかなぁ( ´д`ll)」と思ってたんだ。
※優先順位がなかなかつけられず、片付け・整理整頓の類がものすごく苦手orz
「その瞬間」に、揺れているにも関わらず気づかなかった。
当時住んでた街は、地盤が固かったから、そこまで揺れなかっただけだった。
ネットで大騒ぎになってるから、テレビをつけたら…
テレビの中の映像が、パニック映画のようになってて、一瞬フリーズした。

「これは本当に起こってるの?」

私は、地震が起こった県で生まれ育った、大学の友人や同級生、先輩、後輩が何人もいる。
その中でも、幸い地元の被害が少なかった人もいれば、津波で大切な人を何人も失った人もいる。
被害が大きい場所に住んでいる兄と連絡が取れない、と心配していた後輩もいた。
(その後、後輩はテレビで、レポーターに「何もなくなってしまったけど、またここから始めていくほかない」と兄が話していたのを見て無事を確認したそうで、「無事なのは安心したけど、まずは連絡してほしかった」と苦笑してた。その表情が忘れられない…)
大学院の入学が決まっていたけど、建物が被災して入学が後ろ倒しになったり、就職するために、進学自体をあきらめたりする人もいた。
「あの瞬間」で、人生が大きく変わってしまった人は、私の周りに何人もいる。
日が経つにつれ、「当たり前のことなんてひとつもない」という現実をまざまざと見せつけられた。

「あの日」から2日後、私は後輩達へのメッセージを綴る紙を友人から受け取るために、大学に行った。
そしたっけ、学科の先生(ゼミ違う)に会った。
たまたま、タバコを吸うために門の前にいたんだと思う。(学内に喫煙スペースがないし)
あまり関わりはなかったけど、少し話をした。
先生「ユウさんだよね」
ユウ「はい」
先生「学務からメールは来てる?」
ユウ「携帯には来てません」
先生「パソコンのほうから見て。安否確認のメールだから。見たら返信出してね」
ユウ「はい…」
その後、友人と落ち合い、メッセージの紙を受け取って、部屋に帰った。
途中でコンビニに寄ったけど、普段だとぎっしり商品がひしめいている棚がスカスカになってた…。
パソコンのメールを確認したら、さっき会った先生の言った通りに、学務からメールが届いていた。
「(キャンパス名) XXXX(学生番号) ユウ」とだけ書いて送った。

それからさらに2日後、私は大学の卒業式に出た。
卒業旅行先で「あの瞬間」を迎えた友人は、本来帰る予定の日に戻れず、2日足止めされて、交代でレンタカーを運転して帰ってきた、と言った。
彼女は袴を予約していたけれど、袴どころの話でなく、スーツで卒業式に出た。
彼女は実家が被災し、地元に戻るにも引っ越しの手配ができず、4月に引っ越して、5月に大学院に入学した。
卒業式の日の段階で、安否確認の取れない学生が何人もいた。
幸い、私の科は全員無事だったけど…本人は無事でも、家族が…大切な人が…という人がいた。
私の大学では、卒業式が行われたけど、卒業式自体ができなかった人だっている。

「あの日」から少し経って、私に築港市の高校から非常勤講師のオファーが入って、築港市に戻ることが決まった。
バタバタしながら荷造りして築港市の実家に戻り、健康診断を受け、さあ、4月から非常勤講師の仕事がんばるぞ!と思っていたら、悲しい知らせが舞い込んだ。
小学生の時の、大好きだった担任の先生が、闘病の末、亡くなったという知らせだった。
この話は後々書くとして、「あの日」「あの瞬間」以来、人間は未来永劫生きられるわけではなく、原因はいろいろあっても、いつかは必ず人生が終わることを突きつけられた3週間だった。

話は変わるけど、私はご先祖様が東北からの移民で、一番古い代では4世、新しい代だて3世になる。
東北に修学旅行で行ったとき、初めて行ったはずだけど、どこかで会ったことのあるような人がいたり、どこかで見たことのあるような風景があったり、きっと体のどこかにある「東北の遺伝子」がすごく反応した。
東北の人は厳しい冬を生き抜くために、辛抱強い人が多いと聞いたことがある。
私は北海道で生まれた道民だし、東北弁はあまり話せない(東北弁の語彙が北海道弁になってるものもあるらしいけど)。
だけど、辛抱強い人が多いらしい、東北の遺伝子があるのは紛れもない事実。
東北をルーツに持つ人間として、何かできれば…と思っていても、少額の募金しかできない自分がじれったい。
自分の趣味にかこつけて、仙台に行ってみたい。
東北に行って、おいしいものを食べたり、気に入ったものを買ったり、いろいろ楽しんでみたい。
修学旅行で龍泉洞に行ったり、北山崎で遊覧船に乗ってカモメにエサ(専用のパンが売ってる)をあげたりしたのが懐かしい。
もし北山崎の遊覧船に乗るとき、可能なら上で潮風受けながらカモメとたわむれたり、リアス式海岸のゴツゴツした景色を楽しんだりのほうがいいよ!
下はすいてる場合特に何もないんだけど…ギチギチの場合、船上で地獄絵図が見られるというか…地獄絵図で苦しんでいる人の一員になる。

取り留めもなく「あの瞬間」「あの瞬間の後」「自分のルーツ東北」「東北に行ってみたい」と書いてみた。

「あの日」「あの瞬間」の映像は、見たら今でも精神がつらくなる。
多くのものを一瞬にして、押し流してしまったから。
あまちゃん」でも、「あの日」「あの瞬間」は、観光協会にあったジオラマがめちゃくちゃになったところと、東京で行われるアキのコンサートに行こうと、ユイの乗ってた列車が急に止まって、駅長さんがレールの上にたくさんの瓦礫があるのを見て、ユイに「見るな」と言ったけど、ユイが「見ちゃったよ…」と言うところで描かれている。
「あの日」「あの瞬間」の映像は見られなくとも、これからも目を背けることがないようにしなきゃ…。
大好きな人たちが生まれ育って、そして今でもそこに暮らしている人も少なからずいるから。

今日で「あの日」から5年経ったから、真面目なことを書こうとして、まとまりが悪くなっちゃった…。
明日は佐藤寿人の34歳の誕生日。
エディオンスタジアムでは、誕生日+三男誕生+J1通算158ゴール初達成の記念で「寿」のコレオグラフィー(人文字、その名も「寿人文字」)をやるんだって。
蛇足だけど、佐藤寿人は2003年にベガルタ仙台で決めたゴールのうちのひとつは、アシストが当時のキャプテン、森保一(ポイチさん)。
翌年、J2にベガルタ仙台は降格したけど、佐藤寿人川崎フロンターレ戦で、後半アディショナルタイム残り1分で、2-0で、「このままだったらベガルタ仙台が負ける」って状況で、2回ゴールを決めて引き分けまで持ち込んだ。
どんな状況でも、ホイッスルが鳴る瞬間まであきらめなければ、チャンスはある。
そう思わせてくれるし、そう信じてる。
そいじゃ、また。